難病との闘い

特定疾患の難病である「特発性間質性肺炎」からくる
心不全で突然亡くなってしまった父。
 
ファザコン気味の私の心の整理のために
父の難病との闘いを書かせてくださいな。
 
誤解があるといけないので…
この病に罹ったら、誰もが父と同じ結果になることはありません。
あくまでも、私の父の場合です。
 
労作時の息切れなどの自覚症状をともなって医療機関を受診される患者さんは10万人あたり10~20人といわれていますが、診断されるにいたっていない早期病変の患者さんはその10倍以上はいる可能性を指摘されています。
線維化が進行すると治療が効きにくくなって難治化するために死亡率が高くなり、患者数が多くならないという側面もあります。
 
父が息切れ等に気づき、病院で受診したのが2009年。
そんなに自覚症状は出てなかったと思われます。
しかし…父の「肺」は…すでに線維化がみれた状態でした。
 
間質性肺炎」の治療としては、その炎症を抑えるために
ステロイド免疫抑制剤による治療もあるそうですが
これらの治療には副作用もあり
糖尿病の気があった父には、これらの治療は命とりのなる可能性が強かったので
本当に経緯観察しか手立てはなかったのです。
 
それでも…健康オタクの父は、自分なりの努力・試行錯誤をしていたようです。
呼吸法を試してみたり、漢方を試してみたりと…
実際、進行性の特発性肺線維症としては
進行度合はゆるやかだったようでした。
 
しかし…1年後の2010年5月(75歳の誕生日の3日後)…入院することに。
「呼吸」により「酸素」が十分に取り込めなくなっていたので、
酸素ボンベを使って、酸素を吸入する治療法のはじまり。
実は、この時にはじめて父の病気を知りました。
約1年の間、知らされてなかったのです。
それでも…楽観的な私は、父は大丈夫!
何の根拠もない自信がありました。
 
退院後も、在宅酸素療法といって日常生活で酸素を吸入する治療法が行われました。
それからの父はどこに行くにも24時間酸素ボンベと一緒でした。
薬の投与もなく、副作用もなく、酸素ボンベがあるだけで
今までの生活と何も変わらない父の様子に
私はこの病気を調べるわけでもなく
安易に…気をつけて無理をしなければ、いつまでも生きていてくれると信じていたのです。
退院後は、1か月に1度の通院。
3回送迎をしましたが…4回目は断られました。
自分で運転できるというのです。
好きな時に好きなところへ行きたい…
糸の切れた凧のような父が酸素ボンベとともに自由に出歩きたいのだと理解し
元気そうなので、譲歩したのを記憶にあります。
 
また、その頃、兄が大けがをしたりして、その送迎などもしないといけなかったので
元気そうな父に安心していた…そんな時期。
酸素ボンベがあれば…大丈夫!と思い込んでいた2010年だった。
 
そして…あの大震災!
電気がないと、酸素の機械が発動しないので
救急車で病院へ行き、電気が復旧するまで病院で過ごすことになったと、
後で知らされた。
その時は、電気の復旧とともに、あまり被害のなかった家に戻ることができたが、
病は確実に…父の体を肺を…侵していたのです。
 
5月17日入院。
8月19日入院。
9月27日入院。
11月5日入院。
8月と9月の入院の時には、心臓の機能が低下していて、心臓外科の病棟に入院。
この病気は肺だけではなく、他の臓器も弱らせていくのである。
それでも…気力があり、看護師さん相手にいつも話していた。
何度入院しても…最後はリハビリまでこぎつけ、酸素の量を元の値に戻して、
必ず退院してくれていた。
 
しかし…8月の終わりの退院の時には
今までの倍の酸素の量になっていた。
酸素ボンベを運んでくれる業者の方の話では
これだけの酸素を要する人は寝たきりになっているというのである。
それでも、父は歩き、起きて話していた。
 
11月に入院した時には…やはり心臓・肝臓が相当弱くなっているとのことだった。
風邪もひいて、発熱もしていた。
母と兄から「覚悟」という言葉を聞かされた。
 
病棟が以前入院していた循環器の病棟になり
慣れた看護師の元、2~3日後には熱も下がり、
まわりがびっくりするくらいの回復ぶりに…。
私は「覚悟」という言葉をどこかに置き忘れていた。
ご飯も食べられるようになり、リハビリもはじまり
酸素の量も下がってきた。
 
父の口ぐせは「家に戻る」だった。
そして…それが現実味をおびてきた時
22日に2週間ぶりの入浴と洗髪。
相当に体力を使ってしまったようで
23日に訪ねた時には…また具合が悪くなってしまっていた。
が!それでも…一生懸命話そうとする。
26日…食事がとれず、点滴になっていた。
声は出しずらそうだが、話をする。
27日…相変わらず、点滴をしているが声が昨日よりはりが出てきた。
 
28日は昨日の声を思い出して…大丈夫かなぁと思い、行かずにいたら
29日…今後の治療について先生から話があるというので
兄の代りに母を迎えに行き、病院へ向かう。
病院の駐車場前で、兄から連絡が「病院から電話があり、危篤になった」
あわてて、駐車し、病棟へと急ぐと
看護師さんが待ってくれていて
新しい病室へ案内してくれた…
しかし…そこには
 
父は寝ているようだった。
まだ温かい。
何度も呼ぶ…何度も…何度も
起きてよ。起きてよ。
今にも話しかけてくれそうな父を起こす。起こそうと試みるけれど…
父は目を覚まさない…
兄の到着を待っての先生から告知。
先生が教えてくれた…父の意識がなくなった時刻は11:20
私の駐車券に刻まれた時刻は…11:20
あと5分早く着いていたら…
なんて言ってくれたのかなぁ。
 
主治医の先生もどうしようもない状態での急変。
心不全だった。
苦しまなかったのだろうか。
父の顔はとても安らかだった。
 
お世話をしてくれた看護師さんが来てくれた。
病棟の違う看護師さんも…来てくれた。
 
母は長期戦を覚悟して
自分の薬や着替えなどを用意してきていた。
そんな母に苦労をかけたくなくて
こんなに早く逝ってしまったのだろか…
 
あれから1週間が経とうとしている。
まだ父がいるようだ…。
 
棺の父には母の作った紬の着物と羽織を着せた。
趣味だった書道の筆を入れた。
 
あんなに家に帰りたがっていたので
すぐに納骨しないで、もう少し家にいてほしいと母が望んだ。
 
お父さん
もう苦しくないね。
酸素ボンベもいらないね。
もう自由だよ。